丸百桝屋酒店
旅人も地元の人も出会える場所。酒屋が営む小さな居酒屋で思いがけず人情と優しさに触れる夜。
天竜区・二俣の夜はとても静かだ。みな車で移動するため、クローバー通りを歩く人は少なく、営業している店はまばら。少しさみしい大通りから一本裏に入ると、薄ぼんやりと明かりが見えた。「丸百桝屋酒店」は小さな店ながら、常連客で大賑わい。酒屋であり、飲み屋でもあるこの店を切り盛りするのは、明るく元気な袴田勝代さんと息子の国博さん。勝代さん手作りの酒のつまみを食べながら、いろいろな話を聞かせてくれた。
勇気を出して、酒屋の奥へと進めば地元の人の温かいおもてなしに和む。
「入りづらかったでしょう? 酒屋さんの奥で飲むのか?って思うよねぇ」と息子の国博さんが笑う。お母さんの勝代さんは女優のような帽子をかぶり、着飾って出迎えてくれた。
「あら、困った。東京の人が来るって聞いてね、こんなところじゃなくてさ、もっといっぱいいいとこあるんだから、って言ったんだけどね。どんなもん出したらいいかねって。こんな素朴なものしか出せないんだけどね、いいかしら」とお母さんは口と手を動かしながら、私たちの前におつまみを手際よく並べていく。
息子の国博さんは東京ではおいしいものがいっぱいあるんだから、普段のお母さんが作っているものでいいと話したのだという。今日のおつまみは、まぐろの赤身のお刺身、ポテトサラダ、味のしみた煮物にさっぱりとした和え物。どれもこれもおいしくて、ついついお酒がすすむ。
「丸百桝屋酒店」は、入り口付近に酒のほか、野菜や食材が買える売店があり、その奥のスペースに飲んで食べられる飲食スペースが設けてある。もちろん地元の人だけでなく、誰でも受け入れてくれるのだが、店の作りが奥まっているがゆえに、国博さんの言う通り、一見さんはなかなか入りづらいかもしれない。
隣では、地元の常連客らが焼肉を食べていた。聞けば、それはメニューにはなく、道具も肉もみな客が持ち込んでいるのだという。まるで誰かの家のよう。メニューはどこにもなく、自分が食べたもの、飲んだものを申告するシステムで、なんともゆるい感じだ。
「肉も焼くのも全部持ってくるの。洗うのはうちなんですけどね(笑)。気楽にね、和気藹々とやってくれればいいだ。もちろん酒屋なもんでね、ここで飲んでいただくほうが、商売的にはありがたいことですけど、飲食店に取引があったりもするから、酒屋としての利益はまぁいいかなって。ここってさ、知らない人がふらっときてもね、友だちがいっぱいできちゃう。みんな家族みたいになっちゃうだよ」(勝代さん)
常連客は、〆に店で売っているカップラーメンを食べ、19時30分にはあっさりと解散。散り散りに「またね」と帰って行った。
ほかのお客さんがいなくなったからとお母さんもビール片手に飲みはじめる。さらに饒舌になったところで、昔話に耳を傾けよう。
「昔はね、17時ごろに仕事が終わって、みんなとりあえず丸百で飲んでたの。正月、花見、釣り、忘年会って春夏秋冬みんなよく集まってた。いい時代だった。楽しかったね」
昔は、朝8時には店を開けた。仕事へ行く人が近くにあるバス停でバスを待っている間、寒さしのぎにお酒が飲めるように、と。いまは10時に開けているが、朝から飲みに来るおじいちゃんや女性の方もいて、「いろんな人がいて楽しいよ」とお母さんは朗らかに笑う。
「でも、やっぱりいまはお店が少なくなってさびしいね。夜はどっこも出られない。でもね、息子が一生懸命やってくれるもんでうれしいよ。お母さんはここで飲んでればいい。おつまみはお母さんが作ってそのあとは飲んでればいい。今日は本当にありがとうね、こんなに田舎に来てくれて」(勝代さん)
お母さんは初対面の私たちにもこうして優しく迎え入れてくれた。きっと昔からこうやってさまざまなお客をもてなし、仲良くなり、みなに愛されてきたのだろう。
ご近所のおばあちゃんたちへ 毎朝作る、愛情いっぱいのお弁当。
食後には、旬だというデコポンや大ぶりのいちごを出してくれた。どれもこの界隈の農家さんが育てたものだという。「うちはね農家さんから直接仕入れてるから新鮮なの。みんながおいしい、おいしいって言ってくれたらうれしいから」とお母さん。次から次へ、あれも食べてこれも食べてと出してくれ、まるでおばあちゃんの家に来たかのよう。「おいしいだら?」と聞くお母さんの遠州弁がなんともかわいい。
甘酸っぱいデコポンが本当においしくて奪い合うようにみんなで食べていたら、一人ひとつデコポンの袋を持たされた。買うと言っても聞いてくれない。「ここへ来たら、遠慮しないでいい。ここに来たらさ、家族だと思ってくれたらいいよ。何も遠慮しなくていいから」とお母さんは言い、「あげるったらあげる」と頑なだ。そんなやりとりを見て、息子の国博さんが、なんともお母さんらしいエピソードを聞かせてくれた。
「この人はね、毎朝、近所のおばあちゃんのお弁当を作ってるんですよ。一人暮らしのおばあちゃんがいて、ごはんを作るのが大変だからって、自分で作ったものを持たせてあげてるの。おばあちゃんたちは朝、そのお弁当を取りに来るんです。もう3年になるね。お弁当代はもらわないんだけど、おばあちゃんたちも、店に来たらなんか買ってってくれる。6人くらいいてね、だんだん増えていくんですよ」(国博さん)
毎朝4時に起き、おかずは8種類ほど作り、人数分用意してある弁当箱に詰めていく。80歳から90歳の高齢の1人暮らしのおばあちゃんたちへ、栄養を考えたお弁当を毎日手作りしている。
「おばあちゃんが一人で住んでて、毎日楽しみに来てくれるもんでね。おばさんも楽しみだよ。今日は来ないからどうしたかなって電話してあげるよ。ちゃんと栄養取らんとね、体に良くないの。食っていうのはね、愛情持ってやらんとね。愛情っていうのがうんと大事なの。ただパパッとやったっておいしくないよ。だから、出汁をとって、毎日違うものを作る。食べたよって洗ってお弁当箱を持って来てくれるの。損得じゃなく、喜んでくれるといいなと思ってやってるわけ。それでいいだよね」(勝代さん)
弁当を取りに店に来てくれると、遠くのスーパーに買い物に行けないおばあちゃんたちが、野菜や果物を買って行ってくれるという。お母さんは「無理せんでね、って。本当に欲しいものがあったら買ってくれりゃいいよ」と声をかける。酒屋なのに野菜や果物がたくさん並んでいたのは、きっとおばあちゃんたちのため。あれもこれもと次第に品ぞろえが増えて行ったのだろう。
二俣の町を救ったご先祖と同じ
町のために、人のために働く。
国博さんは「丸百桝屋酒店」のなんと十七代目にあたるという。江戸時代も前から何百年もこの地で造り酒屋をやってきた老舗だ。6年前にはリニューアルし、店舗の奥に飲食スペースを設けた。
「この辺りの飲食店はみんな後継者がいないのでね、5年後にはバタバタと閉店していくんじゃないかな。家を新しくする時に、お店のスペースを使って飲み屋を作るかどうか悩んだけど、先を見たら無くなっていくだけなんでね、ちょっとでも飲める場所がないとなと思って、店の半分以上のスペースを飲み屋に変えたんです」(国博さん)
昔は、俗にいう“庄屋”だった。二俣の町の名主として、町のために尽くした。なかでも、五代目の袴田甚右衛門喜長(じんえもんよしなが)は私財を投じて、二俣の町を救った功労者でもあった。今でも、一年に一度、慰霊祭が行われるという。
当時、二俣川の河口に岩山があったため、そこを迂回するようにして天竜川へと流れていた。けれど、大雨が降るたびに天竜川が逆流してきてしまい、その岩山のところでぶつかって二俣川は氾濫、二俣の町はたびたび洪水に悩まされていたという。そこで甚右衛門喜長は、二俣の街を「どうにかせんといかん」と自分の私財を投げ打って、その岩山を切り開いたのだ。貫通までに25年もかかった。二俣川が直接天竜川へ流れるようになってからというもの、二俣の町は平和になったという。
「僕らがこの場所で商売させてもらっているのも、ご先祖さまの徳があるから。お客さんにも恵まれて、どうにかこうにかここで商売できているのは、本当にそういう徳があるからなのかなって。おふくろが近所のおばあちゃんたちにお弁当を配ることも同じ。徳を積んでいるんでしょうね」(国博さん)
昭和15年ごろに撮られたという昔の写真が残っていた。そこには芸者さんたちが写っており、二俣の町がいかに栄えていたかを物語っていた。その二俣の栄華のもっとずっと前から、この町のためにと働く人たちが確かにいたということ。勝代さんと国博さんの働く姿も、昔と何ひとつ変わっていないのだ。
写真:新井 Lai 政廣 文:薮下佳代