L'atelier Tempo (ラトリエ テンポ)
浜松で一味違うパンを食べたくなったら。
天竜の食材も取り扱う、自家製天然酵母のパン屋さん。
おだやかで明るい店内には、食パンやバケットからチーズクッペ、ヨモギあんぱんなど、色とりどりのパンが厨房から売り場に運ばれてくる。それを見計らったかのように、老若男女様々なお客さんが入ってきてはパンを抱えて楽しそうに店をあとにする。さっきまで焼きたてだったカンパーニュはすでに売り切れ直近だ。
ここは浜松駅から車で12分ほど、自家製天然酵母のパン屋さん〈ラトリエ テンポ〉。明るく軽快な雰囲気の店内から一転、中の工房に一歩足を踏み入れると、背筋がピンとなるような空気が漂っていた。
自家製の天然酵母が棲み着いているからなのか、店主の古山健人さんが醸し出す人間性なのか、ラトリエテンポの6年間というこれまでの歩みを物語っているのか、その理由はわからない。でも工房に立ち入った瞬間、たしかに僕ら取材クルーは顔を見合わせながらそんな独特な気配を感じ取った。
大自然の微生物が職人と出会い、一期一会のパンを生み出していく壮大な物語。パン職人の道のりからこの店でのパンづくりまで、健人さんにお話を伺った。
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酵母から次なる酵母へ。
そして生まれる変幻自在のパン
朝3:00起き。3時半頃から仕込み始め、9時に開店し、17時まで営業をつづけている。生産はすべて健人さん一人。実は、3歳と8歳の子供たちのお父さん。でもパンづくりは一切手を抜かず、パンの種類も点数も一切妥協はない。販売やアシスタントなどは、奥さんとご両親の手伝いのもと日々運営されている。
この日、取材に伺ったのは午前9時頃。健人さんがパン生地を分割しながら、アンティークのように年季の入ったアナログの計量器でパンを焼く準備を始めていた。デジタル機器だと数字が出てくるのを最後待たなければならないが、アナログ機器だと最後まで見なくとも重りの振れ方で感覚的にわかるから、こっちの方が作業効率がいいんだとか。
仕込みの終わったパンの生地はどこか生きているような気配がある。表面は艶やかなのに、しっかりモチモチとして粘り気がある。生地を作業台に置いた瞬間、全体のバランスが崩れて形が変わりそうになる。でも、あたかも生地に意思があるように、バランスをとって形を保ちつづける。生まれて初めてパンに生命力を感じた。
「これはバケットの生地なんです。ベンチタイムと言うんですが、名前の通りカットして傷ついた部分もあるから一度休ませるんです。それが終わったら、細長く成形して焼いていきます」
〈ラトリエ テンポ〉で使ってる酵母は主に3種類。果物のレーズン種、小麦からつくるルヴァン種、ビールの元にもなるホップ種。これらを使い分けて一つひとつ丁寧にパンを手づくりしている。
「自家製の天然酵母は最初の種となる酵母菌の培養に時間がかかるんです。たとえば、レーズンを水に浸すと、葡萄の周りに酵母菌がついていて、エサとなる糖分を食べてガスを発生させ、ブクブクと発酵が始まるんです。ホップの酵母だと、ジャガイモのデンプンとリンゴの糖分がエサとなって発酵する。こうやってできた種に継ぎ足していくことで、種をつないでいくんです。だから最初につくった種を今でもずっと受け継ぎながらパンをつくりつづけています」
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パンに突き動かされ辿り着いた、
自家製天然酵母のパン職人の道のり
曽祖父は大阪で工場生産のパン屋さんを始め、祖父は町のパン屋さんを経営。父親の兄弟3人も父以外みなパン屋さん。そんな血筋を引く健人さんが幼い頃からパン職人の仕事に惹かれるのは自然な成り行きだったのかもしれない。
「おじいちゃんが52歳で亡くなった後、伯父がそのパン屋さんを継ぐことになって。当時の日本ではまだまだ自家製の天然酵母を使ったパン屋さんは少なかったんですが、伯父はいち早く目をつけて取り入れた先駆け的な存在です。僕は最初にそこで修行をさせてもらったんです」
フランスで製パン学校の先生、研究者として活躍し、日本に初めてバケットを伝えたレイモン・カルベル。20世紀を代表するパン業界の権威であり、日本では「パンの神様」とまで呼ばれている。そんなレイモン・カルベルを追いかけて、健人さんの伯父は海を渡ってフランスで修行を積んだ。その経験を経て、自分のお店で自家製の天然酵母で田舎パン・カンパーニュをつくった。そこで修行をして自家製天然酵母のパンづくりを学んだ健人さん。その後修行した東京の〈シニフィアン シニフィエ〉もまたターニングポイントになったという。
「たとえば、フランスのパン職人が編み出した製法、発酵時間を長くすることで小麦の甘味や旨みを引き出すという技術があって、志賀勝栄シェフがその技術を応用し、もっと発酵時間を長くしてみようと実験して一番おいしくなる時間を編み出したりしていたんです。もちろん〈シニフィアン シニフィエ〉でもその多くが自家製酵母のパンだし、ものすごく手間がかかる。でもその分パンが本当においしくって!〈ラトリエ テンポ〉ではそこで学んだ手法をベースにつくっているんです。酵母も素材も違いますし、まったく同じ味にはなりませんけどね(笑)」
健人さんがいつも口にする〝師匠〟というのは、〈シニフィアン シニフィエ〉の志賀シェフのことなのだ。
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ついにオープン。
終わらぬ挑戦の日々
ついに自分でお店を出そうと決めた時、東京や大阪で出すことも考えた。でも、浜松生まれの健人さんはこの地で開くことを決心。「食感が硬めなハード系のパン屋さんをやろうと思った時に、浜松にはまだそういうパン屋さんがないことがわかって。何かのきっかけになればなと」当時を懐かしみながらそう振り返る。
でも現実はそう思った通りには進まなかった。当初予想していたよりも、近所のお客さんの定着には少し苦戦気味だという。こだわりの食材で時間のかかるつくり方のため、普通よりも高値であることへの理解がまだ進んでいないのかもしれない。それでも、パンの食べ方の提案をしたりマルシェに出店するなど、少しでも多くの人に届けるべくひたむきに発信しつづけている。
また、目新しいパンの種類の提案だけでなく、浜松に戻ってやるからにはできる限り地元の食材を使いたいと思っていた健人さん。オープン当時から常にアンテナを張り巡らせつづけているという。天竜地区の食材や素材もそのひとつ。
「〈ラトリエ テンポ〉は天竜にゆかりがあるんです。天竜の養紡屋・塩見くんのハチミツを使ったパンもつくっていますし、床やドアは天竜杉も使っているんですよ。ジビエ工房〈ジミート〉の天竜の鹿とかイノシシも使わせていただいていたり。地元の食材だとお客さんに伝えると喜んでもらえて、それがうれしくって。駅舎を使った一日1組のホテル〈Inn my life〉の朝食の田舎パンは国産小麦にこだわって特注でつくっていて、いつも使っていただいています」
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〈ラトリエ テンポ〉が
天竜と出会ったとき
2019年9月15日に開催された、天竜の魅力を発信する「CHEFS in RESIDENCE TENRYU -料理とお茶の出会い-」。地元のシェフの一人として健人さんは天竜地区の食材を使った新たなコラボレーションに挑んだ。料理と合わせた1つ目のパンは、隣町の森町にある〈おさだ製茶〉の天竜区産の碾茶 (てんちゃ・抹茶の粉末の原料) を練りこんだチャバタを仕上げた。
「最初に、今回の料理のディレクションを務めた料理研究家の冷水さんからお茶と合わせたパンが合うんじゃないかという提案をもらって。第一候補として挙がったのが碾茶。いろんな試行錯誤を経て辿り着いたのが、碾茶の緑の爽やかさや香り、甘味を活かすチャバタでした。チャバタはイタリア語で「スリッパ」という意味。本来は硬いパンなんですが、ぼくがつくっているのは師匠の志賀シェフが編み出したようなパンで。生地と同量の水でつくるので、すごく瑞々しいパンなんです。これなら碾茶の持つ個性を活かしきれると思いました」
健人さんが挑んだ2つ目のパンは最後のデザート前に振舞われた。塩見さんの桜蜜のハチミツとブルーチーズと合わせたライ麦パン。チャバタとは打って変わって、別の角度から地元の素材を使った提案を試みたという。
「浜松で麦の栽培をしている農家がほとんどいない中、知り合いの農家さんが2年前から小麦やライ麦の自然栽培に挑戦していて。そのライ麦を玄麦で仕入れて、自分で石臼で挽いてライ麦パンをつくりました。その農家さんへの敬意と共に、天竜ではありませんが近くの浜松にこんなオーガニック素材があることを知ってもらいたくて。それに合わせて、塩見さんがつくる天竜ならではの希少な桜蜜と、冷水さんオススメのブルーチーズを合わせることで、うまくデザートの前の一品にできたんじゃないかと思ってます」
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時の工房、ラトリエ テンポ
「アトリエ」は工房、作業場という意味、「テンポ」は時代や季節といった時間を表す言葉。「ラ」はアトリエだけだとギャラリーのようにも聞こえるから、冠詞をつけたんだとか。自家製の天然酵母パンは長い時間をかけてようやくできる。長いものだと18時間かかってようやくできるものも。〈ラトリエ テンポ〉は「時の工房」なのだ。
「ほとんど経験のない人でも、スーパーで売っている小麦粉とイーストとを捏ねれば発酵して「パン」と言われるものにはなるかもしれない。でも僕は手間暇かけて自分で育てた天然の酵母でつくるパンが好きで。そんな思いを込めて、こう名づけました」
自家製酵母のパンは小麦粉と水と塩と酵母だけでできる、本当にシンプルな食べ物。でも毎回同じものにならないのだという。
「実際に昨日とまったく同じレシピで同じ手順でやっても違うパンになる。だから朝様子を見て、感覚で順番を決めていくんです。だからきっと明日もまた違うパンになる。毎回、一期一会なんですよね」
どれだけ単調な日々を過ごしていたって、世界は刻一刻と移ろい変わる。花の香り、虫や鳥たちの鳴き声、風の音、雲の形、空の色、気温、湿度。今日と同じ一日はもう二度とやってこない。僕らは毎日、どんな瞬間も、新しい何かと出会い、何かと別れている。そんな小さな変化に気づき、それを肯定的に受け入れたとき、大切な何かをもっと愛おしく感じられるのかもしれない。一期一会と知っているからこそ、いつも新鮮な気持ちで工房に立ち続けられるのだろう。
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時の工房、ラトリエ テンポ。健人さんの言葉の節々から愛情深さが溢れ出していた。今日もここでパンは生まれ変わり、僕たちに新しい出会いを届けてくれる。
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写真:新井 Lai 政廣 文:別府大河