百古里ファーム
北遠の隠れ里、小高い山の集落にて風土に委ねた無農薬のお茶作りと、未来を見据えた抹茶への挑戦。
天竜の中心部二俣地区から天竜川沿いに10kmほど北上すると、のどかな原風景を残す横山町がある。そこからさらに山道を登ること十数分、一段と懐かしさがにじむ小さな集落が広がる。
細い道を辿ったその集落の一番奥に池田亮さん、典子さん夫妻が暮らす古民家がある。生垣の花は色とりどりに賑やかで、ウグイスの鳴き声が山に響く。
眼前には雄大な山のパノラマが広がる絶好のロケーションだ。
この地に移り住んで30年。池田さんが手塩にかけた美味しい百古里茶(すがりちゃ)をいただきながら、これまでの道のりを伺った。
開発バブルの横浜の街から
過疎化が進む北遠の山里へ。
元々は横浜の本牧に暮らしていた池田さんご夫妻。80年代後半から90年代にかけて当時の横浜は、みなとみらいの開発真っ最中。
工事だらけの街並みと、渋滞だらけの道路。空気は悪く、騒音も激しい。次第に暮らしづらさを感じていった。
そんな折、娘さんが気管支喘息とアトピー性皮膚炎を発症。「これ以上ここで子育てするのは厳しいなって、どこかに移らなきゃと思った」と池田さんは横浜に見切りをつけ、移住先を探した。
長野や伊豆などいくつかの候補が絞れてきた頃、たまたま知人を訪ねてやってきたのが、ここ天竜だった。豊かな自然とのんびりとした雰囲気にすっかり魅せられた池田さんは、長女が小学生に上がるタイミングで移住を決意。
そして縁あって出会ったのが築百年を越すこの古民家だった。
「越してきた当時は台所もなかったんだよ。もう作るしかなかったんだよね」と笑いながら語る池田さんは、自らの手で少しずつ、暮らしやすい環境を作り上げていった。
毎日沸かす五右衛門風呂に、煮炊きもできるロケットストーブは雑誌の特集を見てDIY。さらにはロケットストーブの煙突も排気をダクトでつないで、蓄熱用の土を敷き詰めて保温する構造のヒートベンチになっている。穏やかな人柄とは対照的なたくましさとDIY精神の持ち主だ。家の前には小さな畑もあって、自給用の野菜も育てている。
もともと東南アジアを旅するのが好きで、エスニック文化にも精通していた池田さんは、移住当時、現地の雑貨や衣類を買い付け、全国の雑貨屋に卸すという輸入代行業で生計を立てていたそうだ。
なるほどラグや照明など家中のあちこちにエスニックテイストが配されている。
「最初の方は仕入れたものは何でもすぐに売れてったんだけどね。でもこのエスニックブームにあやかろうと大手が参入してくると、やっぱり売り上げは徐々に落ち込んでいってね。そのうちなんか売りたいものもなくなってきちゃって」と当時を振り返る。
そんな折、池田さんの元へ人生を変えるきっかけが届いたのだ。
図らずも出会った百古里のお茶
信頼が縮めてゆくお茶との距離
ある時、「百古里(すがり)にある茶工場が忙しいから手伝ってくれないか?」と村の人から声がかかった。
「村の人たちは、俺がこういう商売をやってるのは知ってたんだよね。確かその頃は商売も下火で、きっと暇そうに見えたんだろうなぁ」と池田さんは笑いながら振り返る。しかしこの村の人の一言が、後の〈百古里ファーム〉へと繋がるきっかけとなっていく。
茶工場がある百古里地区は「北遠の隠れ里」といわれるほど高齢化が急速に進む村だ。そんな村において、池田さんのような存在はとても大きく、移住者とは思えないほどに厚い信頼が寄せられている。
若い労働力として重宝されているのはもちろんなのだが、何よりも池田さんの誠実で親しみやすい人柄がそうさせるのだろう。次第に茶工場だけではなく、茶畑の管理も頼まれるようになり、その面積は徐々に広がっていった。地域からの信頼度と比例するかのように、お茶との関わりは濃密なものへとなっていったのだ。
こうして地域の期待に応えるがごとく〈百古里ファーム〉は作られたのである。
もちろんそれは現在進行形で、未だに引き継いでくれないかという相談が後を絶たないという。
抹茶が拓く天竜茶の未来
こだわりの抹茶「すがりの白」
お茶どころ天竜といえど、残念ながら今やお茶は斜陽産業ともいわれている。
「後継者もいない中で、このまま煎茶だけやっていても食ってはいけない。もはや煎茶だけで食えてる農家はほとんどいない。でももしかしたら抹茶なら……」。そう感じた池田さんは、10年ほど前から天竜区でも数少ない碾茶(てんちゃ)栽培にも取り組みはじめた。碾茶というのは、茶道などでお馴染みの抹茶の原料となるお茶のことだ。
それと同時に有志4人と碾茶専用の工場、〈天竜愛倶里ふぁーむ〉も設立した。ここにはレンガ造りの30mの高温の炉で茶葉をゆっくり乾燥させる設備が整っている。この池田さんたちの抹茶に対する先見の明は確かだった。
池田さんたちが碾茶工場を作ったちょうどその頃、アメリカの某コーヒーチェーンが抹茶ラテを発売したのを皮切りに、欧米、アジア圏内を含め世界中で抹茶の引き合いは強まっていった。
健康ブームも相まってこの10年間で輸出量は3倍ほどに伸びている。今では英語で抹茶=Matchaで通じるそうだ。
栽培だって簡単ではない。碾茶づくりでは、収穫の20日ほど前から、莚や寒冷紗でお茶の木を被覆し、日の光を遮る。そうすることで旨味成分であるテアニンの減少が抑制され、まろやかな旨味が引き出される。そして独特の芳香とともに渋みの少ない茶葉になり、さらに日光を効率よく吸収するために葉緑素を増加させるので茶葉も冴えた濃い緑色になるという。
「被覆することで光合成ができない分、しっかりと肥料をやらなきゃいけないけどね。基本的に菜種油や胡麻油を搾った際に出る搾りかすなど植物性のものだけだよ。薬剤抽出をせず、圧搾のみで搾られたかすだけで肥料化したのを使ってる」とここにも池田さんのこだわりがみえる。
収穫された茶葉は、煎茶のような「揉む」という工程はなく、蒸したらすぐに炉で乾燥させる。そして乾燥した茶葉から茎などの部分を取り除いたものが「碾茶」と呼ばれ、碾茶を臼で挽いて粉末状にしたものが「抹茶」となるのだ。実はこの碾茶の「碾」という字は臼を表し、臼で挽くためのお茶だから碾茶というそうだ。
〈百古里ファーム〉の中でも希少なお茶、無農薬抹茶「すがりの白」は、5施くらいの小さな畑で栽培されている。品種は「おくみどり」という碾茶に適した品種だそうだ。収穫した茶葉から製品になるのは、年間でわずか10kgほどしかない。この「すがりの白」に惚れ込み、今回一緒に池田さんの元を訪ねていたケーキ職人がこんな質問をした。
「僕は日頃から素材を最大限にいかしてシンプルに味わえるよう心がけています。その素材を一番美味しい状態で食べるのが良いと思っています。そうすると、わざわざお菓子にする必要があるのかな? 手塩にかけて育てた希少な素材をお菓子に使うっていうのはどうなのかな? といつも悶々とした疑問にぶつかるんです……」
「うーん」と少し間をおいて、池田さんは話し始めた。
「昔さぁ、台湾に遊びに行ったことがあってね。そしたらすごい行列があってさ。何かなぁと思ってのぞいてみたら、抹茶のアイスクリームに並んでる行列だったんだよね。なんかさ、それを見たら関係ないんだけどうれしくなっちゃってさ。どんなかたちであれ、どこの国であれ、抹茶が親しまれてるのはうれしくてね。だからいいんじゃないかな、いろいろな使い方をしてくれて。僕らが考えつかないような使い方は面白いし、食べる人が喜んでくれればそれでいい! 天竜の抹茶をよろしくお願いします!」
池田さんのその寛容さと優しさにその場にいたみんなの顔がほころんだ。
池田さんとそんなやりとりをしたあの無農薬の茶畑は本当に気持ちよい場所だった。深呼吸したくなるような畑だ。すぐ脇には清冽な川が流れ、爽やかな風が駆け抜ける。暑い日には農作業の合間にこの川で水浴びするそうだ。人間がこんなに気持ち良いと感じるなら、お茶にとっても気持ち良いのだろうか。
今、あの畑で育った百古里茶を飲みながらこの記事を書いている。やっぱり穏やかで味わい深いおいしいお茶だ。目を閉じれば、視界の全部が茶畑と山々の緑で埋め尽くされる。そして心地よい風と池田さんの穏やかな笑顔が浮かんでくるのだ。
“美味しい”ものにはちゃんと美しい背景がある。この百古里のお茶はそんなことも教えてくれた気がする。