浜松市秋野不矩美術館
天竜ゆかりの日本画家・秋野不矩の作品を収蔵する美術館へ。特産の天竜杉をふんだんに使った建築で天竜ならではのアートを楽しむ。
小高い丘の上にある美術館には、天竜出身の日本画家・秋野不矩(ふく)氏の作品が収蔵されている。展示作品とともに注目したいのが、建築家・藤森照信が手がけた建築物だ。地元特産の天竜杉や漆喰、大理石や籐ござなどの自然素材が印象的な “自然と共生する”美術館へようこそ。
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インドをモチーフに描いた日本画家
秋野不矩の偉業を称える美術館。
駐車場に車を止め、急な坂を登っていく。道沿いには、もう今は見なくなった昔懐かしい木製電柱に白熱灯が取り付けられており、ノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。このアプローチの先に少しずつ〈浜松市秋野不矩美術館〉が見えてくる。クリーム色をしたモルタルの四角い建物、両端には三角屋根が配置されている。屋根には長野県諏訪産の鉄平石が敷き詰められ、外壁には黒く変化した杉板がまわりの自然になじんで違和感なく溶け込む。壁から飛び出しているユニークな雨どいは丸太でできており、雨の日にはここから滝のように雨が流れ出てくるのだという。
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秋野不矩は、1908年(明治41年)天竜は二俣で生まれた。静岡大学へ進学し、19歳で千葉在住の日本画家・石井林響に師事し、その後は京都在住の西山翠嶂に師事して以来、京都に居を構えて制作を続けた。1962年(昭和37年)54歳の時には、インドの大学に客員教授として招かれて1年間インドに滞在。吉川利行館長によると、これが秋野不矩の画家人生において大きな転換となったという。
「革新的な方だったこともあり、日本画の作風からだんだんと絵柄が変わっていきました。54歳の時、インドの大学から招聘されてインドへと渡ってからは、そこでインドの風景や人々の素朴な暮らし、インドの自然にいたく感動してからはインドをモチーフに絵を描くようになりました。晩年は何度も通い、インドの自然の雄大さを描くように。1998年、90歳の時にこの美術館がつくられ、最後にインドを訪れたのは91歳で、93歳で亡くなるまで絵を描き続けたそうです」
代表作といわれる『オリッサの寺院』は横幅7mにもおよぶ大作で、秋野不矩が90歳の時に描いたとは思えないほどの迫力の筆致にただただ圧倒される。
「この美術館ができる時、秋野さんからご指名で藤森照信さんに設計をお願いすることになりました。藤森さんの処女作の〈神長官守矢史料館〉(長野県茅野市)を見た秋野さんが藤森さんへお願いしたいとおっしゃったそうで。美術館を建てる場所も、藤森さんと秋野さんで回って探したそうです。天竜川が見えるところに建てたかったそうですが難しく、この場所になったと聞いています」
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絵を見るためには、靴を脱いで入館。
大理石の床に座って、絵を鑑賞する。
美術館の中へは、靴を脱いで入る。その理由は藤森氏の「秋野不矩画伯の汚れのない絵に土足は合わない」ので、あらたまった気持ちで鑑賞できるようにとの配慮による。当時のことをよく知る、中谷悟設計工房の中谷さんにも話を聞いた。
「藤森先生の作品といえば、自然との調和がテーマ。従来の美術館の無機質なホワイトキューブの空間ではなく、目に見えているところはだいたい自然物でできています。美術館という特性上、造りは鉄筋コンクリートではありますが、自然素材がふんだんに使われています。藤森先生は『朽ちていくものも美しい』と自然素材を好まれますが、開館当初と比べるといろいろなところが経年変化しています。建物の変化そのものも作品のひとつと言えるのではないでしょうか」
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床材も場所によって変化していく。エントランスからホールへは当たりの柔らかな漆喰から杉板へ、奥へと進むと籐ござが敷かれた渡り廊下の第一展示室、メインとなる第二展示室はひんやりとした大理石が敷き詰められ、夏は涼しく、冬は床暖房で心地よい温かさになっている。直接肌で触れ、感じる素材の違いや質感の変化を体感できるのだ。
「メインの展示スペースは四方にある作品に囲まれており、秋野先生の作品をよく見られるようにとつくられたもの。座ってゆっくり見ていただけたら。居心地の良さを感じていただけるはずです」
上からは天窓からやわらかい自然光が降り注ぐ。白い漆喰の壁に光がやさしくまわり、自然をモチーフにした絵画や日本画にもふさわしい明るさ。隅の角をなくしているため、どこが隅なのかわらかないほど空間の広がりを感じるつくりになっている。
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天竜だからこそ生まれた空間で
感覚を研ぎ澄ます時間を。
ホールにある立派な柱は、一本の天竜杉から切り出したもの。正三角形の窓からはたっぷりと日差しが届く。漆喰の壁も優しく空間を包み込む。
「杉の木の柱は、大黒柱を寄付したいとのお話があって、藤森先生と秋野先生が一緒に山へ見に行って、木は秋野先生ご自身が立派な木を選んだそうです。1本で30mもあった大きな木でした。藤森先生は建ててから柱を燃やして色をつけたかったそうですが、それは大工さんに反対されました(笑)。煤けた木というのは古民家の囲炉裏などではよく見られたもので木を強くするんです。焼き跡をつけたのは藤森さんご自身と聞いています」
杉は長生きで優秀な建材で、屋根にも壁にも柱にも外壁にも使えるのだという。まさに天竜らしい建築物といえるだろう。壁は藁入りの漆喰で美しく塗られた後から筋を入れ、ニュアンスを加えている。腕利きの左官の方が招集されたそうだが、きっとこういう藤森氏らしい遊び心を仕上げるにはプロの技術が必要に違いない。“神は細部に宿る”といわれるとおり、ありとあらゆる箇所に魂がこもっている。見れば見るほど細部のつくりに気がつくはずだ。
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絵画に親しみ、建物を周りながら感覚を研ぎ澄まし、その感触に身を浸していると、あっという間に時間が経っていた。作品を目で鑑賞するだけでなく、体全体で、五感で感じる美術館だった。
「この坂は予習、復習のための坂といわれているんです。上りは絵を見に来るワクワク感を感じながら、下りはあの作品をああだね、こうだねと話しながら帰っていくための時間がこの坂道に含まれているんです」
上っていく時の高揚感や、余韻を感じながら下る坂道。そこで思い出されるのは、インドの生き生きとした自然風景と、杉板の足あたりの柔らかさや大理石の質感だった。そうした体験をも演出してくれるこの場所も、ひとつのアート作品なのだ。
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写真:新井 Lai 政廣 文:薮下佳代