吉野屋精肉店
二俣本町のクローバー通りを歩いていると大きく掲げられた「特製 天竜ハム」という看板が目に入ってくる。ここ〈吉野屋精肉店〉は、お肉だけでなく、自家製ハムやベーコン、ソーセージなどをすべて一から手づくりし、天竜の人びとに昔から愛されているお店。ハム一筋の職人気質の店主・菊池和也さんと、明るく朗らかに、外から来た私たちにいつも優しく声をかけてくれる奥さんの真澄さん。昔から変わらぬ味を守り続けるお二人に話を聞いた。
ヨーロッパをまわって、ハムの本場を視察。
天竜二俣地区にあるクローバー通り商店街は、街を代表するメインストリートだ。しかしながら、昔は林業に携わる人びとで賑わっていたというこの通りも、今では歩く人もまばらで、シャッターを下ろしたままの店も多く、少し寂しげな雰囲気が漂う。“令和”になった今でも、昭和レトロな看板や店構えが醸し出す景色に、時が止まったような懐かしさを感じる。しかし、空き店舗には若い人たちがお店を構え、少しずつではあるけれど、新しい人の流れが戻りつつあるようだ。
そんなクローバー通り商店街で、なくてはならない場所が、ここ〈吉野屋精肉店〉だ。取材をしている間も、地元の方が夕飯のおかずにと、ハムやベーコンなどを買いに訪れていた。地元の人のお目当ては「プレスハム」。その味わいは豚肉100%、まじりっけなしの豚肉の旨味がぎゅっと凝縮された、これぞハム!な一品だ。
先代の和也さんの父が昭和4年に、ここ二俣の地で肉屋を始めた。けれど、当時はまだまだ肉は高級品。なかなか売れるものではなく、盆と正月だけやっていたそうだ。昭和9年になって本格的にお店を始めた。ハムをつくり始めたのは昭和28年、和也さんがまだ子どもの頃だったという。
「当時は、豚を仕入れて食肉センターに持って行って、枝肉の形にしてから店に搬入してたみたいだね」と、父とおじさんがオート三輪車で肉を運ぶモノクロの写真が残されていた。ハムの作り方は、当時、養豚試験場に出入りしていた父が獣医さんに助言をしてもらったという。また、御殿場のハムづくりの研究者が1年ほど居候していたこともあったそうだ。肉と同じく、ハムももちろん高級品だった当時、なかなか売れるものではなかった。贈答品としてデパートや熱海の旅館などへ卸していたという。
和也さんは昭和43年に家業を継ぎ、昭和47年に真澄さんと結婚。以来、二人でお店を切り盛りするように。昭和45年には全国の優良店舗に選ばれ、ヨーロッパへ視察に行く機会にも恵まれた。ドイツ、フランス、イタリアを周遊しながら、ハムやソーセージなどの加工肉の現場を視察した。まだ1ドル360円の時代。まだ若かりし頃の和也さんが実際に本場の味を体験し、つくり手の現場を訪ねることができたのは、なんとも貴重な経験だったことだろう。
「お店を回って、作っているところや製品を見せてもらってね。でも作り方はほとんど教えてくれないのね。企業秘密。ヨーロッパは湿度がないから、お店にハムをぶら下げてあるんだよ。日本では食品衛生法では絶対にできないことだけど、向こうは全部吊るしてあった。うちと同じように、表に店舗があって、裏に作業場があって。その頃日本でも、個人の店が自分のところで作って、それを売るのが普通だった。外国のハムは珍しかったねぇ。種類もいろいろあったし、香辛料がきついものは日本人の口に合わないところもあったね」
豚肉100%! まじりっけなしの天竜ハム。
和也さんが後を継いでからは、つくる種類が増えた。ロースハム、プレスハム、ベーコンだけだったのが、ボンレスハム、ソーセージ数種、サラミ、珍しいのはピッツァローフというハムにチーズ、パプリカなどが入ったものまで。薄切りにするだけで立派な前菜になる。
天竜ハムの特徴は、豚肉100%で、加水もせず、卵や小麦粉などのつなぎも一切ない。お孫さんはアトピーだそうだが「うちのハムは全部食べられるのよ」と真澄さんも自慢げだ。
「食べてって」とその場で塊肉から切ってくれた。プレスハム、ロースハム、ボンレスハム、ピッツァローフを食べ比べ、さらにはベーコンまで! ロースハムに至っては肉質が繊細で、ベーコンは脂の旨味とスモークされた香りがなんとも芳しい。
「ハムもソーセージもベーコンも本来は保存食。火を通して食べるもんじゃない。家に蓄えておいて、急にお客さんが来たりして出すものがない、困ったなっていう時に、ささっと切って、出せるもの。そういうのが保存食の本当の目的だけど、日本ではおかずになっちゃってるもんだから料理してしまうけど、うちのは生でそのまま食べられるからね」
こんなにもおいしいハムやベーコンがある食卓は実に贅沢なような気がするけれど……。「昔は全部そうだったんだけどねぇ」と和也さん。聞けば、お一人ですべて手づくりしており、その製造過程は驚くほど手間暇がかかっている。効率と生産性を上げるために、捨ててしまったもの。和也さんが大事にしているのは、何も特別なことではない。「おいしいものを食べてほしい」その一心で毎日工房に立つ。それはとてもシンプルで力強い。
一番人気のプレスハムは、いろんな部位の肉の塊を塩や香辛料などで1〜2週間漬け込む。熟成して柔らかくなったら、それを機械に充填してプレスしてボイルして仕上げる。いろいろな部位が混ぜ合わせられているため、豚肉ならではの旨味と味わい深さが特徴だ。プレスハムの表面がオレンジなのは着色しているから。昔、ハムやソーセージの表面はオレンジ色だった。この色は昔から愛されてきたハムの証なのだ。
ロースハムは、地元のブランド豚「遠州ポーク」のロースを成形し、余分な脂などを取り除いて、一本一本布で丸く巻いていく。その後、桜の原木の薪を使ってじわじわ乾燥させ、いぶしていくことで匂いを染み込ませる。ボンレスハムはその名の通り、骨なしのモモ肉100%のこと。ベーコンは豚のバラ肉を2週間ほど塩漬けにし、スモークハウスで72〜3度の温度で丸一日燻製する。いずれも漬け込みに時間がかかるため、品切れしてしまっても、明日には商品が並ぶかといえばそうではない。けれど、極力切らさないよう、毎日何かしらの仕込みをしている。天竜区に取材に訪れるたび、ハムやベーコンを買いに伺うが、いつも何かしらの仕込みをしている。この間はプレスハム、今回はロースハムといった具合に。休む暇などないのが現状だ。
「時間がかかるのは昔ながらのつくり方だからね。手間はかかってもいいの。おいしいと喜んでもらえるものをつくるほうがいいかなと思ってる」
おいしいハムを、つくり続けていくために。
天竜区を取材で回るたび、みな天竜ハムの話をする。「プレスハムがおいしい」やら「ベーコンは厚切りにして焼くとおいしい」のだと。
取材時も、お客さんが一人、また一人と訪れては、みなプレスハムを買っていく。丸々一本買った男性客にどうやって食べるのか聞いてみた。
「そのままおつまみにしたり、野菜を巻いてサラダしたり。一本を半分に切って、スライスしてもらって持って帰るのよ。兄弟、子供に分けてあげるからすぐになくなっちゃう。プレスハムはおいしいよ」とうれしそうに話してくれた。今夜の食卓にはきっとプレスハムが並んでいるのだろう。
また、あるお客さんはいただきものでプレスハムをもらって以来、おいしくて、たびたび買いに来ているそうだ。「ベーコンもおいしいんですよ」と一緒に買って行った。
菊池さん夫妻には娘さんが二人いるが、今のところ後を継ぐものはいない。「困ったねぇ」と和也さんがつぶやいた。ハム、ソーセージを製造するのには、食品衛生管理者の免許が必要であり、なかなかハードルが高い。そんな話をしていたら、真澄さんがすかさず「二俣っていい街だよ!」と明るい声で二俣の良さをアピール。でも「シャッターばっかりで、本当に困っちゃう」と本音もぽろり。
「大変だけどね、楽しいですよ。みなさんおいしいって食べてくださるもんで」。和也さんは繰り返し繰り返し、そう話してくれた。いつまでもこの味を守り続けてほしいという勝手な思いはあるけれど、お一人だけでは、あの負担のかかる作業をあとどれだけ続けられるのだろうかと心配になってくる。けれど、こちらのそんな心配もどこ吹く風。和也さんはきっと今も何かしらの仕込みを行なっているだろう。その毎日の積み重ねが、天竜ハムの味をつくってきたし、二俣の人びとの食卓に欠かせない味のひとつになっているのだ。
どうか、この味を絶やさないように、と願うばかりだ。
写真:新井 Lai 政廣 文:薮下佳代